言うは知らず、知るは言わず

中国の いにしえの故事に、
「言う者は知らず、知る者は言わず」
というものがある。
時に多弁・雄弁な人は、浅い知見を隠すために
言葉を重ねている。
逆に口数少なく行動で示す人は
真実を知っている。
というもの。

スポーツの中でも格技・武道等の、身体操作の習熟を目的とする運動は、
自らの身体との対話が大きな比重を占める。
コツや感覚、フィーリングという形に示せないものが重要であり、
言葉や文章で真意を表現するのはとても難解な事でもある。

 はてさて…格技や武道と言い切るにはいささか心もとないが、
 我らが太極拳に関していえば、
 残念ながら玉石混交の最たる世界。
 白もなければ黒もない。では灰色ばかりかというと、それも違うような。
 真実の見極めはむつかしい。
 WEBサイトやSNSで自由に発信ができる現状では、
 さらに悩ましい状況にあると実感している。
 あざとい承認欲求のネタに太極拳が使われるのは
 とても不愉快に感じる場合も…ある。

さて、閑話休題。
「気」や「意」といった見えないものを、
教える側と学ぶ側が共有するためには、
抽象的な言葉よりも、触れる、推すといったコンタクトが
一番の近道だ。
というかそれしかない。

「…あのう、私の太極拳はスポーツだから気や意は必要ないです。」
「公民館の学習発表会で演舞するための太極拳だから、気も意も知らなくていいですよ」
こういう意見もある。いやこれは多数派の意見だ。
否定できない。私にしても、それらの主流派の太極拳を
疑いもなく、長い年月をかけて愚直に行っていたのだから。

いつからか、自然と力を抜くことができるようになり、
あるべき姿の、本来のものが理解できるようになった。
それはうまく説明できないが、比喩として、
ジャズナンバーを、感覚とフィーリングで
気侭に演奏するようなものか。譜面に残すことができない世界。

本当に良いものは、残るはず。根拠はないが確かに確信できる。

月を美しいと感じる事と似たようなもの。
ああきれいだな。それだけ。思うだけ。
損得もなく駆け引きもなく、そこに在る。
そういうのを自分の中に留めていたい。
損得勘定や駆け引きは、もういい。そこから抜け出したい。
それで、私は何も考えることなく太極拳をやっている。
願わくば、同じ方向を見る友人が増えてほしいものだが。

GORO について

太極拳に惹かれ、早や四十年。踊りでもなく、組織の下請けでもなく、ただのあたりまえの太極拳を、日々稽古しております。スポーツもどきの普及に懸念をいだきます。本来は、華道や茶道という、自分にベクトルが向かう種類の文化と思います。賛同者は非常に少ないのがさみしい(笑)
カテゴリー: 陰陽 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です