『易経』に出てくる言葉で、「すべてのものは、陰(かげ・静)と陽(ひかり・動)の2つが互いに入れ替わりながらバランスをとって成り立っている」という意味
道の為に来たれ。
「型とは『知る』ものにあらず、
『知って鍛錬』すべきものであり、
無暗に多くの型を覚えても仕方がないものだ」
この言葉は、昭和四年発行の「空手道教範(富名腰義珍:著)」の原本を
たまたま県の図書館で閲覧できた際に
手帳に書き留めたものです。
私たちの太極拳の稽古は、
型をくりかえす事が練習の主となる為、
上達の為の足掛かりを、型の表現に依存してしまいがち。
バランス動作や、腰を深く落とす動作で、
上達の可否を自己判断するのは、
本質から遠ざかるばかりかと思います。
述べて作らず
『この手はもう少し広げたほうが見栄えがいいかも』
『もっと姿勢を低くすれば力強さがアピールできるかも』
このような、ひとりよがりの判断で型を解釈して練習した場合、
どこへ辿り着くことができるというのでしょうか。
月を見ずに、月をさす指を見ているということです。
自己流をアップデートという言葉に変換することが通用してしまうような、
底の浅い世界だとしたら、そこに学ぶ価値があるかどうか?
強く勇ましい動作
背筋を伸ばす、いわゆる正しいと思われている動作
足腰に負担をかけない、楽で快適な動作
これらは、学んだ内容を勝手な解釈で改変する代表的な勘違いですね。
学んだ内容に対し、謙虚に信頼し受け止める。
何代にも渡り伝承されてきたものを、浅い知恵で理解したつもりにならない様に。
郷土の先達である、著名な空手家 宇城憲治師範の型に対する考えとして、
逃げない身体 裏切らない心 を作るもの、
広がりながら中心へと向かうもの。
とあります
太極拳が武の世界の末席に座すものであると感じる私には、
多くの日本武道(スポーツ競技ではなく)の先達の残した言葉に
日々の稽古の糧やヒントが多く散見できるのではと思います。

武の意味とは、「自立した精神を得る事」。
それは「いたわりや忖度を期待しない姿勢」であり、
社会の困難を生き抜くために必要な心掛けと思います。
謙虚と卑屈は表裏一体です。その人の品格を試されます。
太極拳を通して、自分の芯を作っていけると思う事は、
けして間違ってはいないと思います。


