道場

生徒さんの動作を手直しする時、
何故そうしないといけないのか、
明確に理由を伝えます。

段級の試験に通らないから、とか、
演武の見栄えが良くなるようにとか、
そういった理由ではありません。

姿勢や動作には「理」があります。
自己流の解釈が入り込む余地はありません。
驕らず、素直な心で向き合うものです。

手直ししても、すぐに戻ってしまう人がほとんどです。
それでも諦めずに、その都度手直しします。
でもそれは、あたりまえのことです。
教える側には、怒りも嘆きもありません。

けれど、学ぶ側は、何度も同じ注意を受けてしまうことを
真剣にとらえてもらいたいのです。

お金を頂いて、その場限りのサービス提供を行っているのではありません。
長く続けていける素地を養って欲しいからこそ
繰り返し手直しをします。

お客さま扱いではなく、同志として友人として、
先輩として、水先案内人として接しているのです。

お教室ではありません。道場です。

サービス業ではありません。道場です。

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推手と皮膚

套路(型のこと)と推手は、太極拳を学ぶ上での両輪とよくいわれます。
けれども実際のところは、推手は敬遠されがちの練習方法ですね。

日頃お教室で、優雅に踊っているベテランの御婦人方や
生真面目で理論好きなオジサマ方が、
昇段試験の項目に推手が入っているので、
とりあえず真似事だけでもやっておかなくちゃ…
というのが現状。

これとは逆に、武道スポーツである
「剣道」「柔道」「空手道」などは、昇段試験の項目の
優雅?な「型」はおざなりで、
地稽古や乱取り・組手が練習の中心となりますね。

推手とは、
勝ち負けに一喜一憂する性質のものではなく、
コミュニケーションの一つの手段です。
トランプや将棋を行うようなもので、
闘志や激しさを否定する運動です。
相手を飛ばして喜んでいるのは下の下ですね。

日常生活・社会生活の中で、
家族や親しい者以外の誰かと、触れる・接触する機会はほとんどありません。
誰かを押したり、押されたりすることもありません。
「目は口ほどに物を言う」とありますが、
「身体もまた口ほどに物を言う」ものです。
推手練習によって、相手の無言の意思を知ることができ、
自分の意思を伝えることができます。
押された人はどう感じるのか、
身体はどう反応するのか?
どの程度の力で押せば安全か危険か?
頭でなく身体で思考していることに
気が付くはずです。

とはいえ、
推手ばかりに特化すると視野がせまくなり、
お山の大将になりかねません。
套路があってこその太極拳であり、
套路がなかったら相撲や柔道のできそこないにしかなりません。

バランスを身につけましょう。

高齢者のためだけの太極拳では、先細りしていつか消滅してしまう。
そうならないようにとサラリーマン稼業のかたわらで教室運営を
行ってきましたが、
いつしか自分自身が高齢者の入口に立っております。

願わくば、太極拳愛好者のみなさま、
バランスを身に着けて、
太極拳という文化を
大切に後世に残すことを考えましょうや。

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正しい練習方法を考える

稽古は本来、一人でするものです。
先生は課題を与えてはくれますが、
それを反芻し、反復練習で
身体に刻むのは、自分です。

とはいえ、苦行を強いるような練習では
いけません。
誰かに命令されて行うわけではなく、
自分の意志で練習するのですから。
自分で工夫しないといけません。

きれい!と言われたいとか、
すごい!と言われたいとか、
かっこいい!とか
誰かの視点の判断を
引きずっての稽古は、だめですね。

俯瞰するのではなくて、
自分は常に中心に居る。
そういう心で套路を打つ事ができると
やっと自由になれます。

本当に気持ち良い。そして明日もがんばろうと、
背中を押す力になります。
たとえそれは、
悩みが解決するわけでも、
救済の手が伸びてくるわけでもないのだけれど、
明日一日をなんとか生き抜くだけの力だけは戻ってきますね。

筋トレじゃないのだから、
数をこなすことにこだわったり、
姿勢を低くすることにこだわっていてはだめです。
上腕二頭筋や大腿四頭筋を太くするのが
目的ではありませんね。
ゴリラやライオンになりたいのでしょうか?

稽古は身体の中を常に掃除して
ホースの通りをよくするようなのが
正しいと感じています。

スポーツではないのです。
違う次元でものを見て思考しないといけません。

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「養生」「健身」「護身」

「養生」「健身」「護身」
太極拳を永く続ける事で、それなりに見えてきた3つの柱。

「養生」とは、命、生命力、それをケアする力と考えてます。
やる気がでない…、気が進まない…、こういった状態になった時は、
心に想い悩むことがある、身体のどこかに不調がある状態。
お日様の下で身体を動かす。自然の一部であることを自覚する。
笑顔でいられる事。明るい性格でいられる事。ご飯をおいしく食べられる事。
ヒトとしての根源的な力を養い保つ事が、
太極拳を通して手に入れることができると思います。
不安や焦燥感の中での、マスコミ主導の健康法や、健康器具、投薬を養生とはいいません。

「健身」とは、より積極的に健康を増進していく。
強い身体、柔軟な心へと自分をかえていく、
心と身体を作り上げる、そんな力が太極拳にはあります。
自分の主(あるじ)は、自分。司令官は自分です。
太極拳を続けることで、少しづつ少しづつ、昨日よりも今日はちょっと強くなっている。
そう感じることができると思います。

「護身」とは、トラブルを事前に察知して、
あわてずに回避、もしくは対応できる精神状態。
しっかりと反応できる身体と技術と心。これが「護身」と呼ばれるものであり、太極拳の中に存在するものです。
太極拳=武術です。
太極拳は武術以外のなにものでもありません。
武術とは危機管理能力です。戦わないためにはどうすれば良いか、後々面倒な事にならないためにはどう対処すべきか、
最善を考え行動するのが危機管理です。
投げ飛ばしたり、打ったりして問題を解決しようとする時点で、
この社会では不適合者の烙印を押されます。

「養生」生きる力。
「健身」強い身体。
「護身」社会を渉る知恵。

もしもこれらが、太極拳によって手に入るのなら、私には、魅力的に思えるのです。
ただし、これらは、あくまで私の思考です。

それぞれが、自分の太極拳のモノサシを持ちましょう。

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火は熾きているか

まずは抵抗せよ。
様子見に終始していると、事態は悪くなることがほとんどだ。
太極拳は、争わないことが最終奥義であるけれど、
逃げ腰で争いに背をむけることではないのだ。

やさしい時代だ。
何かが大きく間違っている。
汗も恥もかかないで、本当の痛さを知る勇気を持てずにいるのか。

その弱さは、どう工夫しようが
武器になどならない。口当たりのよい言葉で飾っても
弱いままだ。

けれど正しく自覚できた弱さを、
弱き己の、精錬の火にくべる事で、
志(こころざし)を保つ役には
立つのだろう。

さて、火は熾きているだろうか。

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真善美

太極拳は人に見せることを目的として
存在しているわけではない。

無理やりにスポーツというカテゴリに
入れてしまったがために、誰か第三者が
審査する形式を、疑いもなく取り込んでしまった。

貴方が自分自身を表現するのに、
初対面の方々にジャッジをゆだねていいのですか?

ウケようとすると作為が働く。
作為が働くと鼻につく。
鼻につく動作は、見すかされる。

正しい動きをする太極拳は美しい。
人に見せる為の動作は、哀しい。
美しさは、探してもらうものではなく、受け取るもので、
解らない人には一生わからないまま、
見えない人には見えないままでかまわないだろう?

腕を広げて、胸を広げて 地を踏んで、
重心を沈めて 息を吐いて、空間を瞬間切り取る。
ああ気持ちがよいな。今の自分は自由だ。

後には何も残らない。
こんなのが太極拳の理想ですよね。

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陰陽の母

今の我々の社会では、労働や家事、育児や介護など、
何かに追われ、プレッシャーやストレスと折り合いをつけながら
一日が終わりますね。

赤信号で立ち止まった時、ふと見渡すと、
ほとんどの人が、スマホ片手に画面に見入ってました。
ほんの一瞬だとしても、何かから開放されたい
という気持ちの表れかもしれません。

陰陽とは中国で生まれた古(いにしえ)の哲学の、核を為す言葉です。
陽がさせば、必ず影も生まれる。
私達のいる世界は、すべて陰と陽で変化を続けています。
太極とは陰陽の母です。
宇宙を指す言葉です。
つまらない人間関係に疲れたり、
自分で作りあげた妄想に囚われたりして、
スマホの画面に救いを求めるのならば、
自宅のリビングや、早朝の公園・広場などで、
さっと太極拳の型をひとわたりやってみる。

ほんの数グラムかもしれないけど、
身体や心の重しがとれるかもしれない…。

私たちは宇宙を構成している大切なパーツ、
果てしない宇宙の一部。
胸をはって高みから世界を見直す
視点を持ちましょう。
太極拳を学ぶ意義が
そこにあるのではないでしょうか。

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過失あらば赤面すべし、飾るべからず

あたりまえの事なれど、
誰もが上手になろうとか、
達人になろうとか思って
太極拳をしている訳はないという事。
それぞれの、太極拳に対する距離感があり、
向き合い方があります。

たくさん型を知っているとか
えらい先生にならっているとか
大きな団体に入っているとか

主観という、片寄ったモノサシで計って、
優劣を競ったり、
人格を下に置くなどは
愚かな事。

上手い下手は、太極拳においては
基準とはなりません。

笑顔があり、元気がある。
ああ、いいなあ、と
感じれる瞬間を共有できる事。

誇り(矜恃)を持ち、
恥を知る(忸怩)素直さを
太極拳を通して、きっと学ぶことができるでしょう。

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